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坂出東四国ロータリーサテライトクラブ
議長 山野知禎
ロータリー月間 「ロータリー財団」月間2について について
RI広報 ロータリー財団生みの親 「ロータリー財団の父」として知られるアーチ C. クランフは、ロータリー財団創設における自らの役割について、謙虚な姿勢を貫きました。
1928年にクランフは、「ロータリーへの貢献において最も大きな満足感を与えてくれた」達成を3つ挙げていますが、財団設立はその中にありませんでした。その代わりに、1915年のロータリー定款の起草における自らの役割に言及し、この定款が「国際ロータリーを初めて中央集権化し、ロータリーのすべての目的と基本原理を普遍的なものにした」と主張しています。また、出席報告書の確立と、国際ロータリーのヨーロッパ支部の設立を主張した最初の人であったことを誇りに思っていました。
クランフは1869年6月6日、米国ペンシルバニア州カヌートビルという小さな町に生まれました。子どもの頃、一家はオハイオ州クリーブランドに転居し、クランフはここで1911年にクリーブランド・ロータリークラブの設立会員となりました。1913年にはクラブ会長となり、奉仕活動の資金を確保するためにクラブが積立金を設けることを提唱しました。この構想は、ロータリーでほかの役職を務めるようになってからも、常にクランフの頭の中にありました。
ロータリアンになって5年目、クランフは1916-17年度ロータリー会長に選出されました。会長任期の終わりに近づいた1917年のアトランタ大会(米国ジョージア州)で、クランフはロータリアンにこう呼びかけています。「ロータリーは今、新たな時代に踏み出している。これまでに形づくられた輝かしい原則を実践するための運営手法の改善が、私たちに求められている」。
そして行動の6つのポイントを挙げ、そのひとつが基金の設立、すなわび後のロータリー財団の設立でした。 「諸々の社会奉仕を今まで通りに実行していくには、慈善・教育・そのほかの社会奉仕の分野において世界でよいことをするための基金を作るのが、極めて適切であると思われる」 クランフの簡潔でありながら力強い主張により、ロータリーの基金が生まれました。
1928年に正式に「ロータリー財団」と改称。管理委員会が結成され、クランフは初代管理委員長として1928年から1935年まで務めました。委員長を退いた後も、ロータリーのリーダーや会員に財団の重要性を教え、寄付を奨励し続けました。 クランフは1951年6月3日に82歳でこの世を去りましたが、その影響は財団を通じて今も息づいています。
会員増強委員会委員長 出席委員会 山田眞一郎
会員総数 : 27名
今週の出席: 07名
今週の出席率:26%
幹事報告
幹事 岩本吉隆
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クラブ情報委員会
ロータリーは奉仕の一世紀の後に、さらなる飛躍を求め世界的な人道的ニーズを解決する為に活動しています。今回は、その足跡を振り返り先人の奉仕の理想を顧みたいと思います。
ロータリーが世界本部を置くべきだという考えは、少なくとも1920年国際大会にまでさかのぼります。この大会で、1919-20年度ロータリー会長だったアルバート・アダムスが、ロータリーが所有する美しい本部ビルがいつの日か実現することを願っている、と出席者に向けて語りました。
「夢のような話に聞こえるかもしれませんが」と前置きした上で、会長はこう続けました。「実現は可能です」
この考えが現実となる1950年代には、ロータリーの世界的な存在感、そして事務局で働くスタッフの数は大きく膨れ上がっていました。
シカゴ時代
ロータリークラブ国際連合会(現「国際ロータリー」)は、1910年に設立され、シカゴ(米国イリノイ州)にあった当時の事務総長チェスリー R. ペリーの事務所が本部として使われました。1911年3月、ロータリーの本部は、シカゴ中心街にあった数多くの賃貸スペースの一つ、ファーストナショナル銀行ビルに移設されました。
1914年には、シカゴのサウスミシガン通りにあったKarpenビルに本部を移設。そこでの9年間、スタッフの数は78人にまで増え、ロータリーは北米だけでなく、ヨーロッパ、アジア、南米、アフリカ、オセアニアにも拡大しました。第一次世界大戦後に賃料が値上がりしたため、ロータリーは1923年にAtwellビルに移転し、その後もいくつかのビルを転々としました。
移転を繰り返した後、リーダーたちは、RIが独自に世界本部を所有することを求めはじめました。1921年国際大会の代議員たちは、ロータリー所有ビル建設用の敷地を購入する決議を可決しようとしましたが、この試みは失敗に終わりました。1928年国際大会では同様の決議が採択されましたが、「クラブが支払う人頭分担税または分担金を増額しないこと」、「場所はシカゴ市内であること」という二つの条件付きでした。委員会が設置され、複数の候補地が挙がりましたが、大恐慌と第二次大戦への米国の参戦により、その後しばらくは大きな進展が見られませんでした。
候補地を求めて
1943年になってやっと、1939-40年度RI理事ロイ・ウィーバー(コロラド州)、1942-43年度RI理事フレッド・ハース(ネブラスカ州)、1935-36RI会長エド・ジョンソンから成る本部設置委員会がRI理事会によって任命され、候補地に関する協議が本格的に再開されました。
この委員会の設置と同じ頃、ジョンソンは、ほかの元会長に手紙を送り、シカゴの北に位置する郊外の町、エバンストンのノースウェスタン大学キャンパス付近に、ロータリーがビルを所有するという自身のビジョンを伝えました。ビルの所有による財務安定や、ロータリー創始者ポール・ハリスを記念したいという心情に訴えたのです。ジョンソンはまた、ビルのスポンサーとなることは、当時まだ常設プログラムのなかったロータリー財団の目的となり得ることを提案しました。
1944年国際大会で、本部の候補地をシカゴ市外に広げることが承認されました。30のクラブが、それぞれの地元に本部を設けることに関心を示しました。委員会メンバーらは、7つの候補都市を訪れ、本部の最終候補地としてデンバー(米国コロラド州)を推奨しました。
この推奨は、会員やシカゴの人たちを驚かせました。シカゴを代表するグループが理事会と会合し、陸路・空路の要所であり金融・輸送の中心地でもあるシカゴの立場を主張。また、ロータリーとシカゴの関係を強調し、「シカゴの事業・市民リーダーは、ロータリーがシカゴで誕生したという事実を誇りとしている」ことを指摘しました。
デンバー移設案が長期間にわたって討議されましたが、1946年と1947年の国際大会でついに否決されました。
世界本部をエバンストンに
1952年1月、理事会は、シカゴとその近辺の敷地やビルを「直ちに、かつ精力的に」探し始めることを決定し、同年8月にエバンストンにある土地を購入しました。『The Rotarian』誌(現『Rotary』誌)11月号には、花こう岩の大きな階段、巨大な柱、斜めに広がるウイングを特徴とする3階建ての新しいビルのスケッチと詳細が掲載されました。ビル内部は、音響効果のある天井と空調など、現代的なシステムとデザインとなっていました。
1953にロータリーのリーダーたちがリッジ通り1600番地に集まって起工式が行われ、翌年8月にビルがオープンしました。最初の月には、ロータリー会員ら250人が見学に訪れました。
スタッフ増員を想定したスペースの余裕や増築にもかかわらず、ロータリーは成長を続け、やがてこのスペースでも不十分となりました。このため1987年、ロータリーはエバンストンのシャーマン通りにあるビルをBaxter Travenol Laboratories社から購入しました。現在「ワン・ロータリー・センター(One Rotary Center)」として知られるこのビルは、国際ロータリーの世界本部として年間2千人を超える訪問者を迎えています。見学ツアーのお申し込み方法は、こちらをご覧ください。
ロータリー世界本部の所在地
下記の建物は、現在も商業施設や事務所スペースと使われているほか、個人の居住用に改築されたものもあります。
1910年:チェスリー P. ペリーの事務所(シカゴ、LaSalle通り)
1911年:First National Bankビル(シカゴ、South Dearborn通りとMonroe通り。その後解体)。
1913年:Fort Dearbornビル(シカゴ、South Clark通りとMonroe通り。その後解体)。
1914年:Karpenビル(シカゴ、South Michigan通り)
1923年:Atwellビル(シカゴ、Cullerton通りとPrairie通り)
1928年:Chicago Evening Postビル(シカゴ、West Wacker通り[Wells Street通り近く])
1934年:Jewelersビル(旧Pure Oilビル)(シカゴ、East Wacker通り)
1954年:Ridge通り(エバンストン)
1987年:One Rotary Center(エバンストン、Sherman通り)
エバンストン(米国イリノイ州)の世界本部に加え、世界各地に事務局があります。
例会開催期間は、第1週目、第3週目の金曜0時より、翌週の金曜0時までとなっております。